小川直也 地獄の銀 真実とは?敗北の地獄がヤバすぎる!

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小川直也 アトランタ五輪までの苦闘

まさかの銀メダルという結果に終わったバルセロナ五輪

引退を考えていた小川直也さんでしたが、周りの反対もあり

次のアトランタ五輪を目指すことになったそうです。

苦悩の4年間と語る小川直也さん

いったいどのような心境だったのでしょうか?

――帰国された後、4年後のアトランタ五輪に向けて、すぐに気持ちを切り替えることはできましたか。

「いや、やめようと思ってました。もともと五輪を目指して柔道を始めたわけではなかったし、長くやろうとも思っていなかったんです。JRAに就職していましたから、仕事に従事しようという気持ちに傾いていました。でも周囲の雰囲気が、そうじゃなかったんです。『次のアトランタこそは頑張ってくれよ!』と会社の人や関係者がみんな、そう言うんです。とてもじゃないけどやめられない状態でした(笑)。五輪を目指すというよりも、一年一年やっていこうと気持ちをシフトさせて現役を続けていくことにしたんです」

――当時の日本重量級は、小川さんが絶対エース。ライバルとなるような次の世代が育っていなかったですね。

「そうでした。だから『やめたい』と言った時、柔道関係者からも『やめないで欲しい』と止められました。なのに結構、冷遇されたんです(苦笑)。バルセロナが終わってからアトランタまでの4年間は、葛藤続きだったんですよ。バルセロナの後、全日本の監督が上村(春樹)先生から山下(泰裕)先生になって、強化システムも変わりました。バルセロナまでは、わりと自分のペースで練習や調整をさせてもらえたんですが、そうではなくなったんです」

――強化システムの変更で、どういったことが起こったのですか。

「いまでこそ『選手ファースト』は当然ですけど、あの頃はそうじゃなかった。選手が納得できず、『それだけはやめて欲しい』と思うことでも指導者が言うことは絶対でしたからね。『負けたやつが何を言ってるんだ!』と言われるし、優勝した大会の後でも『勝ったからって、わがままは許さないぞ』という感じでした。『トップが決めたんだから、選手は全員それに従え!』という風潮がありましたから、山下先生ともぶつかりました」

――それでも全日本選手権で優勝を重ねて、1996年のアトランタ五輪に出場しましたね。

「でも正直なところ、バルセロナとアトランタでは気持ちの入り方が大きく違いました。『何のために柔道をやってるんだろう』って思いながら練習することも多かった。いまと違って、なかなか代表内定も出してもらえなかったんですよ。結果を出していても、そのほかの選手たちと最後まで横一線に並べられましたから。代表内定が出たのは、4月下旬の全日本選手権で優勝をした後です。だから大会直後の記者会見で言ったんですよ。『まだ(アトランタ五輪に)出る気持ちになれません。疲れました。予選で疲れました』って」

――そうして迎えたアトランタ五輪はどんな気持ちで挑まれたのですか。

「どうにかしてやり遂げなきゃいけないという気持ちだけでした。調整が十分でない状況で五輪を迎えていましたから。そんな中、準決勝でドゥイエとやって、競り合った末に判定で負けました。あの時は、ドゥイエが強かったです。結果にも納得しています。大会後にドゥイエも『あの試合が事実上の決勝戦だった』と言ってくれましたから」

――準決勝で敗れ、続く銅メダルをかけた3位決定戦では一本負けを喫してしました。

「3位決定戦は、もう棄権したいと思ったんですが、『それだけはやめてくれ、出てくれ』と言われてね。でももう気持ちが入らないですよ。金メダルじゃなかったら、あとは一緒なんで。ぼくの競技人生は、ドゥイエ戦で終わりました」

 

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プロレスに転向したきっかけを語ってくれています。